ゴビ砂漠やタクラマカン砂漠がどうしてできたんだろう?
この事実と歴史をきちんと見据えてきたのは山の上においやられた少数民族の人たちである。
焼き畑による乱開発で砂漠にした張本人は古代中国帝国だ。
これににた愚行を今、世界のメガジャーナルが行おうとし、高騰しつづけるジャーナルの販売利益だけを自分達のものにして、メガジャーナル出版社に責任を転嫁しているのが、世界の名だたる学会、つまり大学の教員と研究所のOTAKUたちである。
だが、アクセスできればいい、自分たちの研究さえなんとかなってくれrたなら、
このセリフをそのまま経済学に翻訳すれば
「恐慌よ、ぜったいに来ないでくれ、私の所だけには」
という独占資本の論理とまったく同じ理屈が出てくる。この理屈はもうすでに「マルクス以後」という現代において解決・克服されたのではなかったのか。
大学図書館の予算はひっ迫している。大学の教育するべき範囲と経済界の無責任な要請は富の蓄積された結果社会の次の担い手に向けて投資されていないばかりか、労働者の消費をすべき新天地としてアジアへ進出し、いよいよ日本はお払い箱となりつつある。
教育は現在の学術と科学技術の粋をある一事典でスパっと見事な切り口で切り取り、全身全霊で次の世代へ伝える犠牲的な行為。無償の愛で貫かれた非生産的な、しかしこれを土台にしたインスピレーションで他大な収穫を期待している意味では極めて利益誘導的な先行投資以外ではない。それゆえ、産業界は若者に従順な奴隷のように従う事を期待し、一方で自分たちが解雇の心配がおきない場所から命令だけをしていればいいような社会を作り上げた。
その結果、どうだろう。大学のような本務地があればまだ成果物を発表し蓄積し後続の世代に提供することもできようが、それらの基礎を作っている無数の無名の研究論文は、学会か大学リポジトリが蓄積できないものは「なかったこと」になるのである。
私はこれを「学術情報の砂漠化」と位置づけ、ここに警鐘を発するものである。
大学教育はメガジャーナルの高騰と学会利益の蓄積の悪影響で危機に瀕している。
つまり将来学者になれる人は特定オルグや財団お抱えの人間だけになるのではないだろうか?
「コレクションからアクセスへ」と世界の大学教育のシフトチェンジがされて10年がたった。
しかし、どうだろう?大学の教師はまだ自分の大学へ著作を買うよう促し、大学はそれをInter Librari Loanで回すことができる。だが、天職だと飛びついて研究に従事した無数の研究者たちの努力はどこで報われるのだろうか?
すべての学会論文は最長10年ですべて無償化すべきである。このままでは砂漠の砂として葬られてしまうからだ。自らの学問した存在証明をかけて、今、オープンアクセス運動に皆さんの力が集まることを期待している。維持費と、アイテム、そして入力する労働力と労賃のすべてを!である。
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